誰かにとっては甲子園や駅伝で、俺にとってはナンパだった

大学時代に体育会系の部活に所属していると就職に有利になる、と言われている。

 

その理由は、上下関係だったり1つのことに集中する強さだったりを、厳しい活動の中で身に着けているはずだとういう推測からではないかと思う。

 

そういう意味では、ナンパに人生の一時期を捧げたことがあるということは、素晴らしいことなのじゃないかとふと思った。

というか、たぶん甲子園に行くために生活の全てを野球に捧げる野球少年や、受験のために風呂やトイレに参考書を持っていくような人たちよりも、ストイックにナンパしている人たちはたぶん人生を捧げている。

 

高校球児や受験生は、どんなに頑張ったって、ある点で彼らにはセーフティーネットがある。

学校の授業にはきとんと出るだろうし、家に帰れば、親が作った料理を食べることができる。

大学の部活だってそうだ。講義があって、誰かが学費を支払ってくれて、ある意味で、彼らにとって部活は、サードプレイスのようなものだ。

 

 

ところが、同年代の人たちが会社で嫌々働いているその時に、俺の打ち込むべき対象はナンパで、そこにはセーフティーネットも何もなかった。

将来への道しるべもなく、お金も仕事もなく、ただナンパにだけ打ち込んでいた。

 

結果的に俺の貯金は尽き、ゲームは強制終了した。

 

 

部活や受験は、あくまでも安全の輪の中で行われている。彼らは生活を捧げているけれど、他にもいくつか、ちゃんと大切なモノがあるだろう。将来への希望もあるだろう。

 

能力や才能のある人たちは尊敬するし、それこそプロに行くような人たちの継続的な努力習慣には頭の下がる思いだ。

 

だけど、人生を賭けるという点では、俺たちと彼らに違いはないように思う。

 

甲子園や駅伝に出場した人たちは、就職活動やキャバクラでおいしい思いをできるかもしれない。

一方で「ナンパに命を懸けました」と吹聴すれば、頭がおかしいと思われるだけだろう。ナンパがうまいなんてことは、世間的には何の効力もない。「ナンパをやってきた」過去は人に誇れるものではない。

 

だけどナンパに人生を賭けた過去は、必ずどこかであなたを助けてくれると言っておきたい。

 

 

俺は今、ナンパから離れて別の活動に打ち込んでいる。

そしてその中で気付いたことがある。

 

それは世の中のどんなことに打ち込むにしても、ナンパに人生を捧げたのと同じように行動すれば、必ずうまくいうということである。

 

これ本当だから。

 

 

たとえば俺はナンパに人生を賭けていた頃、仕事をしていた時もしていなかった時も、リソースの全てを【ナンパ】に割いていた。

 

お金や時間、エネルギーの全てをナンパに割いた。

 

 

そして俺は使えない社員になり、無職の無一文になり、

 

 

それらと引き換えに、ナンパの達人になった。

 

 

それは必然的な出来事だった。

なぜなら覚悟が違ったからである。俺がそこら辺の酔っぱらいサラリーマンナンパ師やスカウトに負けるわけがなかった。

 

 

何かに一度でも全力を尽くせば、もう死ぬんじゃないかってくらい情熱を捧げれば、また別の何かにも同じように情熱を捧げることができる。

 

 

そんなふうに一つのことに命懸けで臨むとどうなるかと言うと、ほとんどの人から頭一つ抜き出ることが出来る。

 

 

なぜって世の中のほとんどの人たちには、大切なことがいくつもあるからだ。だから彼らは思い切って飛ぶことが出来ない

 

 

仕事を失うのが恐い。

貯金がなくなるのが恐い。

人に笑われるのが恐い。

失敗が恐い。

振られるのが恐い。

 

テレビが見たい。

モテたい。

出世したい。

新しい洋服が欲しい。

ブランド物を買って見栄を張りたい。

 

ほとんどの人たちは、焦点を絞ることができないから、結局は何一つとして手に入れることが出来ない。

 

本当に何かを手に入れたいなら、いろんなものを捨てなきゃダメだ。

 

 

かつて人生を賭けたものが、誰かにとっては野球やサッカー、駅伝で、そして俺にとってそれはナンパだった。

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