その刹那(ナンパ)は命をかけるに値する

ナンパでの出会いは刹那的だと言われる。この出会いでは心から満たされることはないと薄々気付きながらも、男はその刹那に命を懸けるのである。

フルネームを知らない、もちろん共通の友人などいるはずもなく、どこに住んでいるのかもどんな仕事をしているのかも知らない。まさにワンナイトラブといった関係性で、彼女について知っていることといえば、名前とラインのIDくらいだった。

Twitterをやっていたら、看護師 即とでも報告していたかもしれない。だけどTwitterはやってないからそれもできない。

朝が来てホテルを出て、駅前でまたねと言って別れる。またがもう二度とやってこないことを俺たちはもうピュアな子どもじゃないから知っている。手を振って彼女が駅に吸い込まれた途端、さっきまでの出来事は俺の記憶に過ぎないものに成り下がった。

 

朝の日がうざったいくらいまぶしい駅前に1人残されたときは、通勤中のピシッと決めたサラリーマンやOLとのコントラストに、ここが現実かどうかも怪しくなってくる。ただでさえ寝不足なのに酒を飲みすぎてたらもう手に負えなくなる。

 

昨日の夜の出来事は現実なのか?ってこと。俺はそれを聞きたい。

 

自画自賛するほど綺麗に決まったオープナー(見知らぬ女の子に声を掛けて会話を始める前の第一声)や身の回りの何とも例えがたい胸の柔らかさは、たしかに俺の身に起きた出来事なのだろうか?

 

それを証明する方法はどこにある?

 

あるとしたら相手の女の子に聞いてみるのが早い。

 

だけどもしも相手の女の子がそんなことはなかったと言ったら?

 

俺は以前読んだパトリシア・ハイスミスの「見知らぬ乗客」を思い出した。

 

この刹那はたしかに存在したのだろうか?

 

1000人斬りのナンパ師だってそうだ。1000人の女の子の証拠はどこにある?

 

俺は気付いた。これはナンパに限ったことじゃない。

 

人生は記憶に過ぎない。そのほとんどがあってもなくても差し支えないような些細な出来事の連続に過ぎない。

昨日のSEXも昨日の晩御飯のおかずもちっぽけな頭の中の残像である。SEXの直後は少し満たされて、よくやったぜ俺と思っても、記憶が薄れるにつれてその気持ちも薄れていってしまう。

アル中の人がアルコールを求め続けるのと同じだ。人は過去の記憶だけでは生きていけない。今日めちゃくちゃ幸せだったからといってその幸せをかみしめて死ぬまで重労働を耐え抜くことなどできないのである。

俺たちは生きるために刹那を追い求め続けている。その刹那はナンパ師の存在証明なのである。

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